ローマ人の物語〈22〉危機と克服(中) 」塩野 七生
2005/11/26公開 更新本のソムリエ [PR]
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【私の評価】★★★☆☆(72点)
要約と感想レビュー
■ガリアの反乱を鎮圧したローマ。
ユダヤの反乱を鎮圧したローマ。
ローマはこうした反逆を鎮圧すると、
「なかったことにする」と
寛容さで対応しました。
広大な属州を統治するローマには、
現代と同じような政治機構、税金問題、
リーダー育成などの問題が
あったことがわかります。
■武力による恐怖よりも、
許し仲間とすることによる
一体化を目指したローマの
寛容性は大きいものを感じます。
日本も寛容さは大きいと思いますので、
前の戦争で敗れなければ、台湾も朝鮮も
日本人として育ってくれたのではと
考えてしまいました。
塩野さん、
良い本をありがとうございました。
この本で私が共感した名言
・属州民かローマの同盟国民で構成される補助部隊は、同じ地方か同じ部族の出身者たちで隊を組む。この部隊を率いる指揮官には、兵士たちの属す部族の族長クラスが就任するのが通例であった。ローマ市民のみで編成される軍団の指揮官の登用には実力主義が徹底していた紀元後一世紀になっても、補助部隊の長にはまず権威が先行したというのも興味深い。合理的思考と文明度は、比例の関係にあるのかもしれない(p25)
・軍団がローマの軍団でありえたのは、属州民の血が多くを占めているにかかわらず、彼ら自身がローマ市民であることを誇りに思っていたからである・・・・敬意とはしばしば、武力よりも有効な抑止力になりうるのである(p53)
・ローマを裏切ってガリア帝国に忠誠を誓った軍団兵たちを、何もなかったことにする、の一言で許した・・・ローマ人は、「勝者の権利」の行使よりも、「寛容(クレメンティア)」で対応するほうを選んだのである(p78)
・ユダヤ民族の特殊性の第一は、彼らの居住地域であるパレスティーナ一帯が、伝統的に強大国が治めるシリアとエジプトを結ぶ線上に位置することであった。・・今ではシリアもエジプトもローマ帝国の支配下に入っていた(p85)
・ローマの武将たちの多くに共通する特色は、武人らしい見栄、ないしは虚栄心に無縁であった点である。彼らは、少数の敵を多数で攻めることに何のためらいもなかった・・・精神力のような非確定要素は最後にくるのだ。(p153)
・医療と教育を民活にゆだねることで一貫したこの方針が、ローマの社会福祉費が国家財政を圧迫するまでには至らなかった要因ではないかと思う(p222)
▼引用は、この本からです。
新潮社
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【私の評価】★★★☆☆(72点)
ローマ人の物語シリーズ
「ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上) 」
「ローマ人の物語 (2) ― ローマは一日にして成らず(下) 」
「ローマ人の物語 (3) ハンニバル戦記(上) (4) ハンニバル戦記(中)」
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「ローマ人の物語 (6) ― 勝者の混迷(上) 」
「ローマ人の物語 (7) ― 勝者の混迷(下)」
ローマ人の物語・ユリウス・カエサル ルビコン以前
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「ローマ人の物語 (28) すべての道はローマに通ず(下)」
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ローマ人の物語・迷走する帝国
「ローマ人の物語・最後の努力」
ローマ人の物語・キリストの勝利
ローマ人の物語・ローマ世界の終焉
著者経歴
塩野 七生(しおの ななみ)・・・1937年7月、東京生まれ。学習院大学文学部哲学科卒業後、イタリアに遊学。1968年から執筆活動を開始。1970年、『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』で毎日出版文化賞を受賞。この年よりイタリアに在住。1981年、『海の都の物語』でサントリー学芸賞。1982年、菊池寛賞。1988年、『わが友マキアヴェッリ』で女流文学賞。1999年、司馬遼太郎賞。2002年にはイタリア政府より国家功労勲章を授与される。2007年、文化功労者に。『ローマ人の物語』は2006年に全15巻が完結
読んでいただきありがとうございました!
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