知の巨人の対談「半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義」
2021/02/11公開 更新本のソムリエ [PR]
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【私の評価】★★★★★(95点)
要約と感想レビュー
半藤氏の奥様が夏目漱石の孫娘
スタジオジブリの宮崎駿と「日本のいちばん長い日」の半藤一利の対談です。時は東日本大震災後の2013年、ジブリ映画「風立ちぬ」が公開された年です。
面白いのは二人の共通点が夏目漱石好きということ。半藤氏は「漱石先生ぞな、もし」という本を書いているし、宮崎氏は旅するときは漱石の『草枕』の文庫を片手に出かけるのだという。半藤氏の奥様が夏目漱石の孫娘であり、漱石の性格と書かれたタイミングから「坊っちゃん」は東京大学の教授会で赤シャツに似た人物と喧嘩して腹いせに書いたんでしょうという推理が興味深すぎる。
宮崎・・ぼく、『草枕』が大好きで、飛行機に乗らなきゃいけないときは必ずあれを持っていくんです。どこからでも読めるところも好きなんです(p16)
堀越二郎は理想の飛行機を作った
宮崎駿は映画「風立ちぬ」で、96式艦上戦闘機を開発した堀越二郎に光を当てています。当時、宮崎駿の伯父が社長で親父が工場長で飛行機工場をやっていたという。そこで零戦の風防と夜間戦闘機「月光」の翼の先の組み立てをやっていたのです。それで宮崎駿は飛行機に興味を持ったのでしょう。
堀越氏の作る飛行機は、曲線が多く性能は良いが大量生産に向いていません。宮崎駿は堀越氏は戦闘機を作ろうとしたのではなく、自分の理想の飛行機をつくりたかった人なのだ、と断言しています。
当時の日本の軍人(官僚)は、ほとんどすべての石油をアメリカに依存しながら、ドイツと手をむすび対アメリカ戦争の準備を進め、戦闘機にも無理な要求を求めている。そういう軍人の暴論を横目に、堀越氏は技術者として作りたかった飛行機を作っていたのです。
半藤・・「これからは戦艦じゃない、飛行機だ」と言っていたのは、山本五十六はじめほんのひとにぎり。しかもそういう連中は異端者になってしまった(p235)
歴史を知ってアニメを作る
宮崎駿は映画「風立ちぬ」で、堀越二郎と本庄季郎を親友にしていますが、実際にはあまり仲が良くなかったという。映画「風立ちぬ」を作るために当時の風景、建物、鉄道、住宅、病気、すべてを調べ上げたうえで、ファンタジーとして再構築していることがわかりました。
歴史の真実を知ろうとする半藤氏と歴史を知ったうえでアニメという作品を創作しようとする宮崎氏は、アウトプットは違っても同じ船に乗った知の巨人だと思いました。これほど知的な会話が存在するのは驚きでした。★5とします。半藤さん、宮崎さん、良い本をありがとうございました。
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この本で私が共感した名言
・宮崎・・「所沢航空発祥記念館」にアメリカ人所有の零戦が展示されています。所沢市が「おまえ、零戦好きだろう。見に来い」というんです・・だけど、ぼくは行かないんです。北米インディアンの斧、トマホークを集めた白人主催の展覧会に、インディアンが見に行くか、と言いたい(p60)
・半藤・・・戦艦大和・武蔵・・この巨艦を「オレたちはすごい軍艦をもっているんだぞ」ということを、外交宣伝の、その道具として使えばよかったのですが、それを日本はしなかった。もっていることをなぜか隠したんです。・・宮崎・・あれも不思議ですね。零戦だって隠しましたからね(p70)
・半藤・・「日本海軍はなぜ親独になったのですか?」とずいぶん関係者に聞いたんです・・あるとき某海軍士官がポロッと漏らしたんです。「ハニー・トラップだよ」と。つまりドイツに留学をしたり、駐在していた海軍士官に、ナチスは女性を当てがったと言うんです(p174)
・宮崎・・いまの日本人には、この国には資源がないという発想がない・・半藤・・ないです。自活できない国だと思ってもいない(p246)
【私の評価】★★★★★(95点)
目次
第1部 悪ガキたちの昭和史
第2部 映画『風立ちぬ』と日本の明日
著者経歴
半藤/一利(はんどう かずとし)・・・1930年、東京生れ。作家。東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。「週刊文春」「文藝春秋」編集長、専務取締役、同社顧問などを歴任。1993年「漱石先生ぞな、もし」で第12回新田次郎文学賞、1998年「ノモンハンの夏」で第7回山本七平賞、2006年「昭和史」で、第60回毎日出版文化賞特別賞を受賞
宮崎駿(みやざき はやお)・・・アニメーション映画監督。1941年、東京生まれ。学習院大学政治経済学部卒業後、東映動画(現・東映アニメーション)入社。『太陽の王子 ホルスの大冒険』の場面設計・原画等を手掛け、その後Aプロダクションに移籍。1973年に高畑勲らとズイヨー映像へ。日本アニメーション、テレコムを経て、1985年にスタジオジブリ設立。雑誌『アニメージュ』に連載した自作漫画をもとに、1984年に『風の谷のナウシカ』を発表。
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