「私の手が語る」本田宗一郎
2003/12/23公開 更新本のソムリエ [PR]
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【私の評価】★★★★☆(84点)
要約と感想レビュー
本田宗一郎氏の商売の考え方、教育の考え方に共感しました。本田氏の考え方こそが、今のホンダを作り上げたということが分かります。しかし、あまりに偉大な人は、周りの普通の人に理解されないので小さいときには苦労したようです。
例えば、妻である本田さちさんは、「本田宗一郎は、大風呂敷を広げてものを言う人間だ」と陰口をささやかれていたと証言しています。仕事がうまくいくと主人の言葉どおりのことが実現し、誰もが驚き、本当に不思議だと思ったという。
本田宗一郎氏は、自分の悪童だったときのことを振り返り、あんなに勉強がいやだったのだから、いまのように覚えなければならないことを山のように用意された子を気の毒なように思うと言っています。もし、あなたの子供が学校に行きたくないといったり、不良になったりしたら、大物の証拠かもしれません。あなたの子供を信じてあげてください。
この本で私が共感した名言
・目先の成績にこだわり、独自の哲学にもとづく創意をすこしでも放棄するような考えが生まれたとき、企業は転落と崩壊の道をたどりはじめるだろう。
・あとひとつ、企業の体質をあやういものにするのは依頼心である。・・・・・・ろくにいじりもしないで、これは電気屋だと電気関係の技術者を呼んできて、自分は知らん顔をする。
・家の手伝いはしなくてもいい、ただ強制されるのは勉強だけ、といった状態はふつうの子どもにとってはつらいものである。
▼引用は以下の書籍からです。
【私の評価】★★★★☆(84点)
著者経歴
本田 宗一郎(ほんだ そういちろう)・・・1906年生まれ。1991年没。本田技研工業創業者。1922年二俣尋常高等小学校を卒業、アート商会(東京・自動車修理工場)に入社する。1928年浜松アート商会を設立する。1937年東海精機重工業(株)を設立する。1939事業に従事するかたわら、勉学にも励み、浜松高等工業学校機械科二学年を終了する。1946年本田技術研究所を設立する。1948年本田技研工業(株)を設立する。発明特許の実用化とオートバイの生産を開始し、以後25年間にわたって二輪車、四輪車、汎用機の開発・生産を陣頭指揮する。1973年社長を退任、取締役最高顧問。1974年(財)国際交通安全学会を設立する。1977年(財)本田財団を設立する。1981年勲一等瑞宝章を授与される。1989年日本人として初めてアメリカの自動車殿堂(AHF)入り。1991年肝不全のため死去
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