瀬島龍三とは何者であったのか「幾山河―瀬島龍三回想録」
2021/01/11公開 更新本のソムリエ [PR]
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【私の評価】★★★☆☆(75点)
要約と感想レビュー
■瀬島龍三とは何だったのか、
と思いながら手にした一冊です。
瀬島龍三は、第二次大戦を参謀本部員として
作戦を計画し、終戦間際には大本営陸軍参謀、
総合艦隊参謀にまで出世しています。
沖縄戦終了した1945年7月には
満州関東郡参謀として赴任し、
侵攻してきたソ連軍と停戦交渉後に、
シベリアに11年間抑留される。
ソ連侵攻に合わせ関東軍は撤退。
日本人避難民はソ連兵に虐殺、
虐待されるままでした。
著者によると大本営は関東軍に対して
ソ連軍が侵攻した際には撤退して
持久戦を行うよう指示しており、
関東軍は指示どおり日本人を
置き去りにして撤退したのです。
著者は大本営、関東軍の双方で参謀として
作戦を計画した者として、避難民のために
他に何らかのすべはなかったかと、
今も心に残る問題であるとしています。
・関東軍の任務は「満州の防衛」ではなく、侵入する敵の野戦軍に対して広く深く縦深的持久作戦を行い、最終的に南満、北鮮の山岳地帯に拠って戦い、我が本土たる朝鮮を守ることであった。8月9日のソ連軍侵攻以降、約1週間の関東軍の作戦行動はこれに即して行われた(p228)
■第二次大戦は避けられなかったのか、
という点については、松岡外相等による
三国同盟や南方仏印進駐により
日本は「戦うしかない」状況に
追い込まれたとしています。
もちろん参謀としてアメリカとの
戦争計画をもっと検討しておけば、
アメリカと戦争しようという選択肢は
なかったのではないか、と
反省していますが、トップが間違えると
参謀としてはどうしようもない。
日本は陸軍と海軍が統合しておらず、
政略と戦略も統合していない点も
問題であった。
つまり、国家方針を決定する体制が
一本化できていなかった点を
反省すべき点としています。
・松岡外相の基本的な考え方もアメリカと戦争しようというものではなく、外交交渉を有利に展開していくための一つの外交戦術として、南方仏印進駐を推進したものだった・・・その結果は自らの国策選択の幅を狭め、一種の袋小路に陥り、最後は「戦うしかない」、あるいや「戦わざるを得ない」状況に追い込まれた(p174)
■軍隊においても伊藤忠商事においても
自分はスタッフであった、という
著者の回想に納得しました。
スタッフとして作戦を立案し、
決定して責任を持つのはラインの
責任者であるということです。
一生涯を通じて優秀な参謀で
ありつづけた人なのだと
感じました。
瀬島さん、
良い本をありがとうございました。
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この本で私が共感した名言
・長年の伝統からくる「陸は陸」「海は海」という考え方にとらわれ、「陸海軍統合の全戦力を集中・発揮する」という思想に欠けていた(p112)
・ソ連に抑留された日本人を洗脳するための「日本新聞」も時々、配付されてきた。「シベリアの天皇」といわれた浅原正基らの「浅原一派」によって編集された新聞である(p244)
・ソ連人労働者の多くは、いかにしてノルマをごまかすかに腐心していた。また、彼らは第三者のいるところでは自由な発言を絶対にしない・・・もしこんな社会に組み込まれたとしたら、不幸この上ないことだろう(p281)
・昭和43年、伊藤忠商事業務本部長時代に「1970年代の伊藤忠の経営戦略はいかにあるべきか」の経営方針検討の必要が起きたとき、所管の部下を二組に分けて対抗演習をやったことがある・・・参加者全員が真剣になって考える、衆知をしぼることになる(p60)
・行財政改革・・・資源がないということと大工業国という性格は本来だと矛盾する。しかし、この矛盾を乗り越えて国家としての営みを続けていかなければならない・・・この観点から、我々は我が国の進むべき方向の第一として、「国際国家」となることが国の存立と繁栄を確保する基本だと考えた(p377)
・特攻隊員として尊い生命を国家に捧げた若者は、陸海軍合わせて6952人に達している・・・特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会という財団法人を設立し・・・全国慰霊祭を挙行し、三笠宮殿下も御臨席された(p478)
▼引用は、この本からです
瀬島 龍三 、産経新聞ニュースサービス
【私の評価】★★★☆☆(75点)
目次
第1章 幼少期から陸大卒業まで―明治44年~昭和15年
第2章 大本営時代―昭和15年~20年
第3章 シベリア抑留―昭和20年~31年
第4章 伊藤忠商事時代―昭和31年~56年
第5章 国家・社会への献身―昭和56年~
第6章 思い出の人々
著者経歴
瀬島 龍三(せじま りゅうぞう)・・・1911年-2007年。陸軍軍人として太平洋戦争を参謀本部部員(作戦課)として務め、最終階級は中佐。戦後は11年間シベリア抑留後、23年間伊藤忠商事で部長~取締役会長、10年間行政改革、中曽根康弘元首相の顧問等要職を歴任。「昭和の参謀」と呼ばれた
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