【書評】「我ニ救国ノ策アリ 佐久間象山向天記」仁木 英之
2025/12/23公開 更新
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【私の評価】★★★☆☆(78点)
要約と感想レビュー
吉田松陰の師:佐久間象山
ペリー艦隊が来航した際に密航しようとしたのが吉田松陰です。残念ながら密航に失敗。師である佐久間象山と共に捕縛されてしまいます。吉田松陰が密航しようとした理由は,西欧列強に打ち勝つためには,海を渡って相手を知ったうえで、策を練らなくてはならないという佐久間象山の考えに共感したからです。
密航は,西欧列強を知るための具体的な一歩だったのです。しかし,鎖国をしている日本では,禁を破るものは容赦なく罰せられます。渡辺崋山も高野長英も橋本左内も幕府を批判したとして死罪となっています。密航することは,よほどの覚悟が必要だったとわかります。
多くの者が死んだり罪を得たりした。象山の知人だけでも、橋本左内が斬罪、川路聖謨が左遷、梁川星巌(やながわ せいがん)は捕縛されそうになったが、その寸前にころり(コレラ)で世を去った(p269)
佐久間象山の実学
吉田松陰の師であった佐久間象山が重要視するのは「実」,つまり実効性のある実学です。
異国船を大砲で沈められると知ると,砲術を学びました。砲術を学ぶために辞書が必要であれば,藩から金を出させて辞書を印刷し,広く流通させようと考えます。
欧米列強に対抗するための海防戦略として老中・真田幸貫に意見書「海防八策」を提出しています。その内容は,多数の大砲を鋳造して砲台を築き,西洋型の鋼鉄船を作り海軍の編成し,学校を整備し人材を育成するという実効性の高いものだったのです。
象山は海軍を作る必要があると強く訴え、その軍は募集に応じた義軍であるべきだとしている・・「買えばいいのだ」ことなげに象山は言う(p179)
佐久間象山の人脈
佐久間象山(敬之助)が最初に学んだのは,儒学者佐藤一斎です。同じ門下生として渡辺崋山がいました。
象山書院に学んだのは,長州藩の吉田松陰(寅次郎)、長岡藩の小林虎三郎,河井継之助などでした。継之助や虎三郎が去った後は,吉田松陰(寅次郎)と勝海舟(麟太郎)が残っていたというのですから,層の厚さを感じます。
佐久間象山は「バカをバカ」と言うような直情的な人だったようですが,本質を見る目を持っていたのでしょう。
風流人でもある継之助は、実は長岡藩でも随一の頑固者・・・「継之助は佐久間先生に己を見ているから苛立つのだ」(p140)
京都で象山暗殺される
佐久間象山は開国し西欧列強に対抗しようとしますが,京都で尊王攘夷主義者に暗殺されてしまいます。享年54歳。明治維新まで日本の国を変えようと真剣に憂い,行動した多くの人が亡くなることになるのです。
「戦後レジームからの脱却」を公言し,安全保障・教育・財政・官僚人事などを根本的に見直した安倍晋三も暗殺されました。今は軍備増強,核兵器などが議論されているようですが,また誰か暗殺されるのでしょうか。
仁木さん、良い本をありがとうございました。
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この本で私が共感した名言
・命など鴻毛(こうもう)のごとく思わねば大事はならないぞ(象山)(p192)
・向こうは戦争をする気などない。こちらは戦える態勢もない。だが、戦の構えをして、それが実を持ったものでなければ、相手はこちらを尊重せんよ(p216)
・アメリカ船の来航自体は初めてではない・・それまでは退去を命じられると大人しく去っていったのである。ペリーがこれまでのアメリカ船のみならず、異国船と違ったのは、完全武装のアメリカ東インド艦隊を率いて日本沿岸に現れたことである(p164)
▼引用は、この本からです

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仁木 英之 (著)、幻冬舎
【私の評価】★★★☆☆(78点)
著者経歴
仁木 英之(にき ひでゆき)・・・1973年、大阪生まれ。信州大学人文学部に入学後、北京に留学。2年間を海外で過ごす。個別指導塾を経営する傍ら2004年より小説を書き始め、2006年に第12回「歴史群像大賞」最優秀賞を、また同年『僕僕先生』で第18回「日本ファンタジーノベル大賞」大賞をそれぞれ受賞。僕僕シリーズのほか、主な著書に『千里伝』シリーズ、『くるすの残光』シリーズ、『高原王記』、『黄泉坂案内人』、『海遊記―義浄西征伝』、『魔人航路』などがある。
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