「若林彊流芳録」東北電力

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若林彊流芳録 (1985年)

【私の評価】★★★☆☆(72点)


■東北電力の四代目の社長になる
 若林彊(つとむ)の回想録です。


 若林さんは北海道電灯に入社し、
 北海道電灯は大日本電力に名称変更。
 さらに会社は東北配電となり
 42歳で青森支店長に就任しました。


 43歳で東北電力に会社が継承され
 44歳で電気部長、
 50歳で取締役社長室長、
 55歳で取締役企画室長、
 58歳で取締役副社長
 61歳で取締役社長
 75歳で取締役会長、
 75歳で逝去しています。


■29歳にして職場で支店の将来ビジョンを作るなど
 積極的に仕事をする人だったようです。
 42歳で青森支店長に選出されるほど
 社員の信頼が厚かったことがわかります。


 若林さんの最大の功績は、
 日本製初の事業用コンバインドサイクル発電の
 導入を進めたことでしょう。
 先見の明があったのは明らかです。
 
 
 若林さん、
 良い歴史をありがとうございました。


───────────────


■この本で私が共感したところは次のとおりです。


・『副の字会』のリーダー・・・
 昭和42、3年頃の話。東北電力副社長の若林さん。
 宮城県副知事は山本さん。
 七十七銀行副頭取は氏家さん。
 そして河北新報社副社長は小職。
 何れもトップの平井、高橋、伊沢三氏の後を継いで
 トップの座に着くのは時間の問題だといわれていた三人である。
 ある日この四人が集まって「副の字会」を結成した・・・
 ナンバー・ツーの立場の使命の認識と、
 やがて近い内に必ず来る最高責任者としての
 勉強と抱負(一力一夫)(p17)


・十年程前から既に光を勉強せよ、光を・・・
 と言われつづけて来た。その結果、
 光ファイバーについては20いくつかの
 特許も申請したが、事ある毎に光、光と、
 よく言われたものだった
 (東北電力副社長 遠藤一彌)(p38)


・社長就任の直後若林さんから、イランのカリン地区より
 天然瓦斯を液化して東新潟に導入するという壮大な
 計画の総取りまとめを依頼された・・・
 カリン計画は、その後のイランの政変で具体化していないものの、
 これに変わってインドネシアのアルンからLNGを導入することとなり、
 これに伴って東新潟の受け入れ基地の建設、
 日本で最初のLNG船の建造やコンバインドサイクル発電プラントの
 建設に発展する契機となったものである
 (三菱重工業取締役会長 金森政雄)(p64)


・コンペがお嫌い、宴会も好まずというのが、
 若林さんの流儀だそうだ・・
 (大成建設取締役社長 佐古 一)(p102)


・東新潟三号系列において世界最大規模の
 コンバインドサイクルの導入を故会長自らの決断によって
 決定されるなど東北電力のみならず、電力業界全体の
 リーダー的役割を果たされた
 (資源エネルギー庁長官 柴田益男)(p117)


・若林さんが「遅れた東北の開発には、
 国家資本の大量投下が絶対的に必要だ。
 政治家を活用する術がまだまだ未熟だと反省している」
 と述懐されたのが印象に残った
 (山形新聞社取締役社長 服部敬雄)(p219)


・住友軽金属は高度成長期の昭和40年代にアルミの一貫生産を目指して、
 アルミ精錬を行う工場を酒田に立地する計画をたてた。
 これが住軽アルミニウム工業である。私から若林さんに
 東北電力、住軽アルミ共同で酒田共同火力発電を設立し、
 住軽アルミに電力を供給する・・・
 その後のオイルショックによるエネルギー価格の急騰・・
 石炭火力転換への設備改造など東北電力には色々とご尽力頂いたが・・
 住軽アルミは国際競争力を失い、57年には解散せざるをえなくなった・・・
 (関西経済連合会会長 日向方齊)(p226)


・若林さんは、東北の開発に情熱を傾け、
 東北を限りなく愛しておられました。
 「東北の繁栄なくして、電気事業の繁栄はない
 という信念の下に、電気事業の社会的使命を
 全うされました(東京電力取締役会長 平岩外四)(p229)


・後に或人から聞いた所では、もし女川立地が失敗したときは、
 電源開発推進本部長の私を連れて社長を退こうと
 思って居られたとの事で、当時を偲び慚愧に堪えない次第である
 (東北電力取締役副社長)(p258)


・東北経済連合会が発足しましてすぐに例の
 「東北開発の基本構想」いわゆるマスタープランの
 作成にとりかかりました。そこで「一割経済」とか、
 「東北開発の四本柱」とかを提唱し、民間経済界から
 東北開発の憲法的な存在になったわけです。
 このマスタープランは若林さんが実質的な
 リーダーとなって作成されたものですが・・(p337)


・仙台にりっぱな駅ができて、ペデストリアンデッキという
 全国に例のない都市改造をやったときに、
 県も市も陸運局も関係組織全部を網羅した
 「ディベロッパー委員会」をつくり、
 若林さんに委員長をやっていただいてずいぶん
 議論したのです(宮城県知事 山本壮一郎)(p350)


・若林会長が青森支店長だった頃に、支店長室に
 稟議書などを持っていくと、支店長室の長椅子で
 イビキをかいて寝ているんです。・・・
 「支店長どうしたんですか、我々が一生懸命働いているのに」
 と言うと「お前は八時間労働だろう。おれは二十四時間だよ」
 と言われたことを覚えています
 (東北電力副社長 明間輝行)(p364)


・新刊書で評判になったものは必ず読んでいましたね。
 ですから元気なときには土曜日はゴルフ、
 日曜日は読書にあてていました
 (東北電力副社長 木下藤次郎)(p368)


・若林 僕は北海道から秋田に昭和13年の7月に転勤して、
 12月までの間に将来の秋田支店管内はこうあるべしという、
 十年後の姿を画いてプリントにした。
 当時はまだ29歳の一課員だから
 「なんだ、他所から来たばかりの青二才のくせに、
 俺たちの仕事にケチをつけるのか」という感じだった・・
 職場が変わった時がチャンスなんだ。
 職場が変わったなら引き継ぎをうけて
 そのとおりやるんではなく、
 自分なりの考えで見直しをやるべきだ(p391)


・東北経済連合会では、「東北開発の基本構想」を発表・・
 「北方経済圏の拠点」「日本海時代」・・・
 ああいうのはとかく研究所に委託したり学者に執筆をお願いして、
 それだけで出しちゃう場合が多いわけです。
 研究所に頼んだり、学者グループに頼んだりすると
 本当の魂が入らないわけだ(p393)


・25年の12月に青森支店長になったが、この時の
 いきさつをみると、ウチの歴史ではたぶんはじめてと思うが、
 支店長会議の投票で私が青森支店長に当選した。
 前任者が監査役に回ったのでそのあとがまを人選したが、
 意見がわかれて投票という手をつかったらしい。
 また決まってからだが、私が41歳かそこらだったので
 組合の青森支部が反対するなど私の青森支店長就任は
 たいへんな難産だった(p404)


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