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「内ヶ崎贇五郎流芳録」

2004/10/24公開 更新
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内ケ崎贇五郎流芳録 (1985年)


【私の評価】★★★☆☆(70点)


要約と感想レビュー


東北配電で共産党系労働組合と戦う

内ヶ崎贇五郎は、初代東北電力社長です。明治28年、仙台市の近郊宮城県黒川郡富谷村生まれ。大正8年、東京帝国大学工学部電気工学科卒業後、大阪電灯、日本水力、大同電力、日本発送電東北支店長、東北配電副社長、東北電力社長を歴任しています。


東北電力社長就任の前の東北配電では、51歳で副社長に就任していますが、当時東北配電は、共産党の指導する労働組合に乗っ取られ、倒産寸前だったという。内ヶ崎氏は組合との団体交渉を続け、倒産寸前の東北配電を救ったのです。東北配電は資金繰りに窮し倒産寸前であり、七十七銀行の柏木頭取の好意で資金をまわしてもらい急場をしのいだこともあったという。


・東北配電にはいったのは21年5月で、社長に遠藤伍一氏、私は取締役に専任、副社長になった、満51歳のときである・・・経理の帳簿なんかも整理はできていないし、人事権さえはっきりしていなかった・・組合が人を勝手に入社させ、それが法律上有効であるかどうかといったような問題もあった。そして組合との団体交渉は猛烈をきわめ、二晩くらい徹夜をして交渉するということもたびたびあった。それで約半年、組合との交渉に没頭したわけであるが、21年の暮に遠藤社長がパージで退任、そのあとを引き受けて社長になった(p244)

只見川系水力発電所の開発

東北電力社長時代には、東京電力が水利権を持つ只見川系の水力を東京電力の了解なしで開発しています。ことの流れは次のとおりです。


東北電力は「東北の電力と産業振興」という報告書を作成し、当時発足したばかりの公益事業委員会の松永安左エ門へ、只見川の水利権は東北電力に帰属すべきだと主張したのです。その結果、只見川水系の水利権は、柳津・片門は東北へ帰属し、その上流の本名、上田地点は東京へ帰属することになったのです。


その後に九電力体制が正式に発足しますが、東京電力は上流の水利権を持っているが、人材がいないので開発できない。必要な人的資源は東北出力にある。東北電力は電力不足を解消するために、上流の本名、上田地点も開発してしまったのです。


東京電力は裁判所に提訴して本名、上田の工事に仮差押えをかけてきました。内ヶ崎社長と白洲会長と大竹作魔福島県知事の三人は相談して、総理大臣の権限で仮差押えの解除をしてもらったという。白洲会長は吉田首相の側近だから、首相の所へ行って話をしたら、すぐに通ってしまったというのです。


結果して只見川の水利権帰属問題は、「全部とまではいわないが、地元東北に応分のものは帰属すべきだ」という内ヶ崎さんの悲願は達成され、東北電力創立後の4,5年間に只見川系に大出力の水力発電所群を建設することができたのです。その後、只見川上流部は「電源開発(株)」で開発する事になり、東北電力からは只見川に関係した技術者は全員電源開発に転籍したという。


水利権だが、只見川水系の柳津・片門は東北へ帰属したが、その上流は東京へ帰属することに五人委員会で決定されている。しかし、開発に必要な人的資源はこちらにある。というのは水力開発をやる優秀な土木屋はみな連れてきたんだ。東京では水利権を持っているんだが、手も足も出ない、開発できない・・当面の電力不足を解消するためには、どうしても本名、上田地点を開発しなくてはならないのだが・・そこで松永翁に了解をとりつけてやったことなんだが、そのことを公表すると、松永翁の顔にかかわることなので、ぼくはこのことは松永翁が死ぬまで言わなかった・・ただ東電会長の菅礼之助さんにだけは言っておいた(p287)

火力技術者の育成

また、東北電力には水力技術者はいましたが、火力系の技術者がいませんでした。そこで、内ヶ崎社長は、同じ東大卒で親しい間柄であった福島の飯坂町出身の九州電力佐藤社長に依頼し、九州電力から多数の火力系の社員を東北電力に転籍してもらいました。


東北電力の火力発電所は、九州電力出身の技術者が育てた東北電力火力部門と、外国からも技術者を招聘して、八戸火力、仙台火力と建設していくのです。内ヶ崎さんは、混乱と不足の中のすごい時代を生きてきた人だと感じました。


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この本で私が共感した名言


・内ヶ崎さんの一族は非常に多く、既に鬼籍に入った本県選出代議士衆議院副議長、早稲田大学教授内ヶ崎作三郎さん、また次兄は仙台藤崎百貨店に養子として迎えられ、現在の当主に三郎助氏はその甥に当る(藤井勝雄仙台市議会議員)(p92)


・内ヶ崎さんは藤崎さんとはご親戚ということで、そんなことから私のことを「平勝ちゃん、平勝ちゃん」と呼んでいましたので、私もつい「贇五(うんご)おんちゃん、贇五おんちゃん」という呼び名でお付き合いをさせていただいておりました(井澤平勝)(p12)


・内ヶ崎さんは「贇の字は國字だから、漢和辞典を引いても判るまい。贇はうんと読む。贇を文武両道と兼ね具えると解するのは無理のないことだが、私の名は文、武の外に財を兼ね具える意味があるんだ」と説明(古谷敬二振興相互銀行顧問)(p104)


・盲腸炎手術後三日目にベッドの上でビールを飲んだというほどだから、お酒は余程好きで、亡くなられる寸前まで晩酌は日本酒一合とビール一本を欠かさなかった由(よし)である藤井勝雄仙台市議会議員)(p94)


・終戦後、塩釜の浦霞ゴルフ場は、進駐軍に接収され、日本人はこの施設を使用することが出来ませんでしたが、当時の一力次郎河北新報社長、伊沢平勝七十七銀行副頭取、藤崎三郎助藤崎社長、佐浦菊次郎浦霞酒造店主、本間正雄福の玉酒造店主らの皆さんの努力によって、その経営が日本人の手に戻されました(三島保弁護士)(p130)


・勾配担当者の我々は物価の低廉はもとより支払いの繰り延べ等に日夜励み、納入業者に多大の迷惑を敢えてしたものでした。ある時期には壱千万円未満の買掛金は全額、超過は二割乃至(ないし)五割の削減支払い、残額翌月以降繰り延べということもあったのです(大野務)(p22)


・ヘリコプターは送電線を空から見て回って山や谷を上り下りする苦労と時間を減らすためだった・・これで送電線関係の人員を半分に減らすことができたのだが、これは東北のように広大な地域だからできたんだ(p292)


内ケ崎贇五郎流芳録 (1985年)
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【私の評価】★★★☆☆(70点)


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