【書評】「日本のピアノ100年:ピアノづくりに賭けた人々」 前間 孝則 , 岩野 裕一
2026/08/15公開 更新
Tweet
【私の評価】★★★★☆(87点)
要約と感想レビュー
国産ピアノ第一号を作った山葉寅楠
NHK・BSでショパン国際ピアノコンクールでのピアノ調律師のドキュメンタリーがあったなと思いながら手にした一冊です。
ヤマハ、カワイといえば世界で主要ピアノメーカーと認められていますが、日本で本格的なピアノづくりが始まったのは明治時代のことでした。
ヤマハの創業者、山葉寅楠(やまは とらくす)は、明治22(1889)年、浜松で「山葉風琴製造所」を創業し、オルガン製造を始めます。
翌年には東京・上野公園で開催された第3回内国勧業博覧会にオルガンとピアノを出品。そして明治30(1897)年には、それまで個人経営だった「山葉楽器製造所」を「日本楽器製造株式会社」に改組しています。
山葉寅楠は明治32(1899)年には107日間にわたって北米を視察し、41ヶ所のピアノ会社を訪問。部品、材料、機械メーカーまで含めれば、視察先は100ヶ所にも及びました。
そして翌年、国産の響板を使ったアップライトピアノを完成させます。これが「国産ピアノ第一号」とされているのです。
欧米から技術を学びながら、独自の響板を組み入れた製品を作る山葉寅楠に、欧米に「追いつき、追い越せ」という明治の先人たちの思いが伝わってきました。
明治33(1900)年1月、日本楽器は、簡素なアップライトピアノを完成させた・・・記念すべき国産第一号と認定された根拠は、音を響かせて個性を決めるピアノの生命ともいうべき響板が国産だったからである(p113)
日本楽器を立て直した川上嘉市
日本楽器は成長していきますが、大正15(1926)年に半年以上にわたり労働争議が起こります。翌年、昭和2(1927)年には金融恐慌が発生し、会社は厳しい状況に追い込まれました。
そこで住友財閥が日本楽器を支援するために送り込まれたのが、住友電線で17年間勤務し、取締役まで昇進していた川上嘉市でした。川上が取り組んだのは、個人経営の延長線にあった日本楽器の経営の正常化です。
まず、経営陣を刷新。不採算だったベニヤ工場や家具工場を売却。原材料の無断持ち出しや会計操作などの不正を厳しく取り締まりました。つまり、ピアノを良くする以前に、まず会社の経営そのものを正常化したのです。
そして川上は、ピアノづくりそのものにも改革を行います。それまでの職人的なピアノづくりに対し、外国製ピアノを参考にしながら、科学的で効率的な大量生産方式への転換を進めたのです。
ここでは、川上が目指す「量産できるピアノ」と、幼方直吉や大橋幡岩ら職人が目指す「手間暇をかけた良質なピアノ」という思想が衝突します。幼方直吉や大橋幡岩らは会社を去ることになるのです。
川上社長が新たに打ち出した科学的で効率的な量産方式と、(幼方)直吉(うぶかた なおきち)や(大橋)幡岩は(おおはし はたいわ)が固執する手間暇かけての伝統的なピアノづくり(p220)
ピアノ人口を増やした川上源一
終戦後の昭和25(1950)年、川上嘉市の息子・川上源一が38歳の若さで日本楽器の社長に就任します。
川上源一の非凡なところは、ピアノを買ってもらうには、ピアノを弾く人を増やせばいいという発想から昭和29(1954)年、銀座の東京支店地下で「実験教室」をスタートさせたことでしょう。これが後の「ヤマハ音楽教室」となるのです。
さらに川上源一はピアノだけにとどまらず、昭和29(1954)年には需要の高いオートバイの生産を開始。翌年にはヤマハ発動機を分離独立させ、日本第二のオートバイメーカーへと成長します。
海外展開も早く、昭和33(1958)年にはメキシコに「ヤマハ・デ・メヒコ」を設立し、オートバイとピアノの現地組み立てを開始しています。
アメリカでは、販売店に対して購入後6ヶ月間のピアノ調整サービスを義務づけ、アフターサービスを充実させ、調律師を仲間として取り組みました。調律師がヤマハのピアノを調律し、自信を持って高い品質のヤマハをクチコミしてくれたのです。
良い製品を作るだけではなく、顧客の育成、販売網、サービス網まで含めて市場を広げていく取り組みがすごいと感じました。
「ヤマハ音楽教室」・・・ピアノを弾ける子どもを増やし、その結果として売り上げを伸ばしていこうという発想・・・昭和29(1954)年・・・銀座の東京支店地下の「実験教室」で個人レッスン中心の授業をスタートさせる(p286)
世界最高峰のコンサート・グランドへの挑戦
ヤマハが「たくさん売れるピアノ」の大量生産の先に目指したのは、世界の一流ピアニストから選ばれるコンサート・グランドでした。川上源一は、「創業80年を迎える1967年までに、なんとしても世界に通用するコンサート・グランドを完成させる」という大きな目標を掲げます。
その成果の一つが、世界的ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルからの評価でした。リヒテルはヨーロッパツアーでもヤマハを使用し、「リヒテルが選んだピアノ」という事実が、ヤマハのブランドをヨーロッパに認めさせる大きな力になったという。
こうした最高峰のピアノを作るという先人の挑戦の結果として、ショパン国際ピアノコンクールで公式ピアノとして、スタインウェイやファツィオリに並びヤマハやカワイ が選ばれているのです。
大量生産と職人技。一見すると相反する二つの間で、日本のピアノ100年の歴史は揺れ動いていたというのがわかりました。前間さん、岩野さん、良い本をありがとうございました。
| 無料メルマガ「1分間書評!『一日一冊:人生の智恵』」(独自配信) 3万人が読んでいる定番書評メルマガ(独自配信)です。「空メール購読」ボタンから空メールを送信してください。「空メール」がうまくいかない人は、「こちら」から登録してください。 |
この本で私が共感した名言
・ベートーヴェンは・・ピアノメーカーに対してたえず改良を促し、つぎつぎとモデルチェンジを推進させる役割を果たしていた・・・当時のピアノが持つ五オクターブを超える曲を作曲したりして、より高い次元の改良をメーカーに要求した(p79)
・「調律」と呼ぶ仕事は、大きく分けて「調律」「整調」「整音」の三つの作業から成り立っている・・・スタインウェイの整音・・一台のグランドピアノに平均9時間を要する(p335)
・昭和2(1927)年に日本楽器を退社した河合小市(かわい こいち)・・彼を慕う愛弟子が日本楽器を退職して集まってきた・・「河合楽器研究所」を現在の河合楽器の本社である浜松市寺島町に設立した(p196)
・ヤマハのライバルである河合楽器製作所(カワイ)は、・・・「月掛け制度」でピアノを身近なものとした同社が次なる一手は、三菱・東海銀行との提携による「ピアノローン」だった・・・当時はまだトヨタ、日産のニ大自動車メーカーでしか導入されていない画期的なものだった(p315)
▼引用は、この本からです

Amazon.co.jpで詳細を見る
前間 孝則 , 岩野 裕一 (著)、草思社
【私の評価】★★★★☆(87点)
目次
プロローグ グレン・グールドのピアノ
戦前篇 洋琴からピアノへ
第一章 文明開化期のピアノ
第二章 オルガン製造に群がる男たち
第三章 国産ピアノ第一号誕生
第四章 洋楽ブーム
第五章 戦前のピアノ黄金時代へ
戦後篇 世界の頂点へ
第六章 戦後の再出発
第七章 大量生産の時代
第八章 イメージ戦略と販売競争と
第九章 コンサート・グランドへの挑戦
第十章 日本のピアノはどこへ行くのか
エピローグ 日本のピアノの未来に向けて
著者経歴
前間 孝則(まえま たかのり)・・・ノンフィクション作家。1946年生まれ。石川島播磨重工の航空宇宙事業本部技術開発事業部でジェットエンジンの設計に20余年従事。退職後、日本の近現代の産業・技術・文化史の執筆に取り組む。
岩野 裕一(いわの ゆういち)・・・編集者・音楽ジャーナリスト。1964年、東京生まれ。上智大学文学部新聞学科卒業、同大学院文学研究科新聞学専攻博士前期課程修了(新聞学修士)。1987年、実業之日本社に入社、現在、同社代表取締役社長。
思った方は、クリックをお願いいたします。
↓ ↓ ↓
![]()























コメントする