「蝦夷 古代東北人の歴史」高橋 崇
2023/03/16公開 更新本のソムリエ [PR]
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【私の評価】★★★☆☆(75点)
要約と感想レビュー
蝦夷と呼ばれる東北地方
東北に生まれ育った自分としては、東北の歴史を学ばなければと手にした一冊です。東北の歴史は記録が残っていないため、どうしても文字として記録されている「日本書紀」などの大和国側の記録から紐解いていくしかありません。
中国では遠方の民族を東夷などと表現したように、大和国側は東北地方を蝦夷(えみし、えびす、えぞ)と呼んだわけです。北海道式土器が東北地方で見られること。東北地方に北海道のアイヌ語と共通性をもった地名が残っていることから、独自の文化と民族がいたということなのでしょう。
4~5世紀頃から、場合によると7世紀にかけては小氷河期に入り・・弥生時代前期に東北地方の北端にまで進んでいた稲作が、後期になると岩手県南部以南へ後退したといわれている(p63)
蝦夷で刀狩り
7世紀頃になると蝦夷への大和の国の勢力拡大が進んでいきます。大化元年(645)、大化改新後に孝徳天皇、中大兄皇太子を頂点とする改新政府は、「東国等国司」を派遣して、蝦夷で刀狩りを行っています。宝亀7年(776)には、岩手県志波村の蝦夷が奥羽山脈をこえ出羽に侵入し、陸奥では軍士3000人を発し胆沢の賊を討伐したという記録があるのです。
延暦21年(802)にはアテルイが征夷大将軍坂上田村麻呂に降伏することになります。征夷大将軍とは、蝦夷 侵略のため朝廷から臨時に任ぜられた総指揮官のことなのです。
延暦21年(802)・・阿弖流爲(あてるい)が母礼とともに「種類五百余人」を率いて降伏した(p176)
同化政策を進める
8世紀には、大和の国から東北地方へ人を送り込んだり、逆に東北地方から、俘囚(ふしゅう)・夷俘(いふ)などを西方へ移住させていたという。蝦夷と大和国の同化を進めるために、入植事業を進めたのです。
蝦夷の歴史はよくわからないということが、よくわかりました。ただ、一つ明らかなのは、大和の国が東方に武力を持って勢力を拡大して東北を支配していったということです。やはり戦争は勝たなければならないということなのだと思います。高橋さん、良い本をありがとうございました。
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この本で私が共感した名言
・青森県上北郡に「壺(坪)の石ぶみ」というものがかつてあり、坂上田村麻呂が征夷の折、弓のはずで石の面に「日本中央」と記したものだという(p30)
・秋田安東氏は「奥州十三湊(青森県北津軽郡)日(ひ)ノ下(も)トノ将軍」と称したという(p30)
・天正10年(1590)、豊臣秀吉は「奥州・日の本まで」征服しようとした(p30)
・改新政府の東北対策として日本史上はじめて登場するのが、柵の設置と柵戸の配置(p86)
【私の評価】★★★☆☆(75点)
目次
第1章 古典の世界に蝦夷をみる
第2章 古代東北、三つの文化
第3章 蝦夷と古代国家
第4章 蝦夷の抵抗
第5章 俘囚・夷俘の行方
著者経歴
高橋崇(たかはし たかし)・・・1929年(昭和4年)、静岡県に生まれる。1953年、東北大学文学部国史学科卒業。岩手大学教授を経て、現在、歴史研究家。文学博士。専攻、日本古代史
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