「家康の本棚 天下人はどんな本をどう読み大成したのか」大中 尚一
2023/03/07公開 更新本のソムリエ [PR]
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【私の評価】★★★★☆(80点)
要約と感想レビュー
大河ドラマ「どうする家康」を見ながら手にした一冊です。驚かされるのは関ケ原の戦いの前年、家康は『六韜』『三略』を出版し、関ケ原の同年には『貞観政要』を出版、その数年後には『吾妻鏡』や他の武経七書を出版していることです。天下分け目の戦いを前にして、下手をすると敗者として殺されるかもしれないという時に、本を出版しているということは、いかに本に学ぶことを重要視していたのか、ということでしょう。
さらに引退後には、「駿河文庫」という蔵書数一万冊の図書館を開設しています。こうした本を読んでいなければ徳川家の天下も、家康も歴史に名を残すことはなかったのかもしれません。著者が推察するのは、家康が本を読みながら、本に書いてあることを参考に方針を決めていたのではないかということなのです。
・(家康は)征夷大将軍を息子である秀忠に譲ったあとには、「駿河文庫」と呼ばれる蔵書数一万冊にも及ぶ私設図書館を設立しています(p14)
家康は政治的な目的を達成するためには、手段を選びませんでした。中国の兵法書には、勝つためには謀略でも賄賂でも何でもやるべきであると書いてあるからでしょう。韓非子には「利益があるとなると、誰でも勇者になる」と書いてあります。家康は関ケ原の戦いで、勝利後の恩賞で諸大名を惹きつけました。
家康は金に困っている武将に金を貸してやったり、当時は禁止されていた有力大名と婚姻関係を結んで勢力を拡大させています。戦国時代に天下を取るということは、日本を支配することができますが、仮にトップになれなければ、支配される側になるということですから、何がなんでも勝たなくてはならないのです。
・『六韜』の第2である「武韜」では、「戦わずして勝つ」ことが説かれています・・敵国の側近に賄賂・・敵国の君主を美女に溺れさせ・・(p184)
家康はその一方で、武田信玄が死んだとき、喜ぶ部下に対し、「信玄がいたからこそ、我が軍も力をつけることができた」のだ、と叱っています。『孟子』の「敵国外患なき者は国恒に亡ぶ」を引用したものです。
また、家康は病気になったとき、「天下は一人の天下に非ず。天下は天下の天下である」と言ったと伝えられています。これは『六韜(りくという)』の中の「文韜」を引用したものです。
さらに家康は、江戸町奉行や長崎奉行などの重要な役職を二人体制にしています。これは、『吾妻鏡』に書かれてある鎌倉幕府が六波羅探題や鎮西探題などを二人体制にしていたことを真似したものと考えられるのです。
このように戦うべきときは手段を選ばすに戦い、日本国を統治するときには、うまくいった政策を採用しているわけです。家康の人生は、教科書通りであったという仮説も成り立つのでしょう。家康はかなり知的な武将であったのです。大中さん、良い本をありがとうございました。
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この本で私が共感した名言
・質素・倹約の生活・・いつもはケチでも、必要なときには思い切りよく使いました(p71)
・危機を上手く利用して乗り越え、ステージを上げるのが、家康の真骨頂(p130)
・「この乱世をみんなにとっても浄土にするのがあなたの役目ではないのか」(登誉(とうよ))天室(てんしつ)は家康にそのように語ったと伝わっています(p30)
・1石は成人1人が約1年間で消費する量と考えられていました(p84)
▼引用は、この本からです
大中 尚一、小和田泰経、日本能率協会マネジメントセンター
【私の評価】★★★★☆(80点)
目次
第1章 「人質」からはじまった天下取り
第2章 戦国大名としての挫折と苦労
第3章 信長の死で芽生えた大志
第4章 大望の実現に向けた一大事業
第5章 待って仕掛けた天下への道
第6章 江戸時代260余年の礎を築く
著者経歴
大中 尚一(おおなか しょういち)・・・株式会社學天堂代表取締役。1976年兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業後、高校の歴史教師として教鞭を執る。その後コンサルタントとして独立。中小企業や個人のコンサルティングを続ける傍ら、歴史の研究を継続。ビジネスの経験と歴史の研究から得た知見を基に各種講座や講演、執筆活動を行う。
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