「仙台藩の戊辰戦争―先人たちの戦いと維新の人物録」木村紀夫
2015/08/21公開 更新本のソムリエ [PR]
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【私の評価】★★★☆☆(74点)
要約と感想レビュー
仙台藩の視点から戊辰戦争、明治維新の記録をまとめた一冊です。戊辰戦争とは、東北地方にとってなんだったのでしょうか。
欧米列強が世界を侵略し植民地を拡大している状況から考えれば、日本の独立を維持するためには、統一された国家としての組織と軍事力を持つ必要があったのは確かでしょう。問題はそれを主導するのが、誰なのかということです。
既存の幕藩体制を維持しようという勢力と、薩摩・長州軍事連合の主導権争いが、戊辰戦争だったのです。幕藩体制を維持することを前提とした奥羽(東北)諸藩から見れば、戊辰戦争とは薩長による軍事クーデターだったのです。
ところが、歴史は奥羽諸藩が守ろうとした幕藩体制を、将軍自らが放り出してしまうという、思いもよらない形で収まってしまうのです。薩長を支援するイギリスと、幕府を支援するフランスという背景もあり、日本の独立が維持できたのは幸運だったのでしょう。
・米国公使は「日本に二人の帝が誕生した。北方政権の方が優勢である」と本国に伝えた。一方英国公使はわが国が支援しており、西軍が勝つだろうと本国へ報告していた(p46)
仙台藩は会津藩救済のため31藩からなる奥羽越列藩同盟を結成し、薩長を中心とする政府軍と戦いました。最新式の武装を誇る政府軍に対し、同盟側は装備が旧く苦戦します。
さらに、秋田藩・新庄藩・亀田藩・本荘藩・三春藩、中村藩等が同盟を離脱することにより同盟側の戦況は厳しいものになりました。仙台藩内で意見が分裂したことも、対応の遅れの原因となっています。
・同盟側は前装式単発銃のゲベール銃や火縄銃なのに対し、政府軍は元込め七連発のスペンサー銃を装備し数発発射中、ゲベール銃は一発を放つという状況であった(p58)
弱者が支配されるというのは、歴史の示すところだと感じました。そうした戦争になれが力を持ったものがすべてを決めるという歴史を記録し、現実を直視ししていくことが大事なのでしょう。
第二部として250人の仙台藩の人物録も充実しており著者の執念を感じました。木村さん、良い本をありがとうございました。
この本で私が共感した名言
・奥羽の地はいつも中央の政権から服従を強いられてきた。蝦夷征伐、清原氏・安倍氏・藤原氏の滅亡と一方的に戦いを仕向けられ、服従させられてきた歴史がある(p5)
・同盟軍が敗れた要因は作戦の稚拙と、兵器性能の圧倒的な違い、実戦の経験がなかったことが大きかった(p80)
・七月四日、仙台藩から秋田藩に派遣した正使団一行が、同藩の尊攘派により十二人全員が殺害された。これにより秋田藩は奥羽越列藩同盟を脱退して政府側に転じ、政府軍の一大拠点となった(p67)
・日米通商条約締結後から維新までの激動時、藩論は桜田良佐、遠藤文七郎、中島寅之助らの尊王攘夷派と、但木土佐、松倉恂、大槻磐渓らの開国幕府派に二分され藩論が一つになって事態に当たれず、激しい派閥党争が戦中、戦後まで繰り広げられ、それが戊辰戦争後新政府による過酷な処分に尾を引き手仙台藩の悲劇となった(p26)
・奥羽の各藩においても、断腸の思いで家老に反逆の汚名を着せ刑場に送り込まねばならなかったが、戦争責任者二名は仙台藩だけで、他藩は一名か無しであった。・・但木土佐と坂英力に戦争責任による刎首の刑が執行された(p93)
・秩禄処分で尾張藩には数百円に及ぶ奉還金が下賜されたが、同じ62万石であった仙台藩はその数割にも充たず、近代産業を作る資本にもならなかった(p176)
・トマス・グラバーは中国でアヘン戦争を推し進めた勢力の一員で、日本に来て改革の志を持つ坂本龍馬を巧みに操り潤沢な工作資金を任せ、軍資金と兵器に飢えていた西郷隆盛に取り入れらせたと云われる。(p505)
・維新後、東北は経済的に後進性を余儀なくされ、慢性的な貧困が一帯を覆うようになり、工業や経済の発展から取り残されてきた。司馬遼太郎は「明治は坂の上の雲だった」というが、東北は白河以北一山百文と蔑視・差別され「坂の下の雑草」として踏み続けられてきた(p508)
【私の評価】★★★☆☆(74点)
目次
第一部
第一章 戊辰戦争
第二章 奥羽越列藩同盟軍の戦い
第三章 戦いのあと
第四章 慰霊
第五章 明治維新
第二部 人物録
仙台藩の先人たち(250人)
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