「鮎川義介《日産コンツェルンを作った男》」堀 雅昭
2021/01/30公開 更新本のソムリエ [PR]
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【私の評価】★★★☆☆(71点)
要約と感想レビュー
戸畑鋳物を起業
日産コンツェルンを作った男,鮎川義介(あいかわ よしすけ)を知るために手にした一冊です。鮎川家は明治維新で没落しますが,母方の祖父の弟である井上馨の口添えで,貝島、鮎川,久原,藤田家等の資産家と婚姻関係を作ります。
鮎川義介は職工として芝浦製作所に入社しエンジニアとして学び,さらにアメリカで鋳物工場で働き,帰国後に三井や近い財閥から資金を出資してもらい戸畑鋳物を起業します。ところが注文が取れず赤字続き。親戚の藤田家に増資の形で資金を出してもらい倒産の危機を乗り越えます。
そのうち第一次世界大戦で鋳物の需要が増え,戸畑鋳物の事業は成長軌道に乗ることになるのです。
日本において欧米流のトラスト思想を輸入した先駆者は鮎川の大叔父・井上馨である・・・こうした井上流のトラスト思想を三度目の訪米時にゲーリーと会って直接経験談を聞いたことで、鮎川は自ら実践する気になったのであろう(p99)
日産コンツェルン誕生
その後,昭和恐慌で倒産の危機にあった親戚筋の久原鉱業の経営を昭和2年に引き継いだ鮎川義介は,親族の資金をかき集め,なんとか久原鉱業の倒産を防ぎます。
久原鉱業を安定化させた鮎川は、翌昭和3年に久原鉱業を持株会社として日本産業株式会社に改名。ここに鮎川義介が創業者となる日産コンツェルンが誕生したのです。
久原鉱業を日本産業株式会社に改めること・・・その後、昭和4年4月に鉱山部門を独立させ、日本鉱業株式会社(現、JX日鉱日石金属株式会社)とする。日本産業の修業事業は久原から引き継いだ日立製作所(大正9年2月に久原鉱業から分離独立)と日本鉱業だったため、日産コンツェルンは久原鮎川財閥とも呼ばれた(p145)
自動車生産事業に乗り出す
その後,昭和5年に金輸出再禁止から急激な円安となる中で,昭和6年には満州事変が勃発。久原鉱業の業績は急回復しました。
その株高を利用してグループ株式公開,公募増資などにより市場よりプレミアムを乗せた資金調達に成功。この資金を基に、前から目をつけていた自動車生産事業に乗り出すのです。
日本産業の40%を保有していた鮎川家は株式による資金調達により5%以下にまで下がっており,オーナー支配が当然であった当時としては画期的な経営であったのでしょう。
昭和5年12月に成立した犬養毅内閣が金輸出再禁止を行ったことで急激な円安となり・・・中小商工業者の救済と赤字国債の発行で日本鉱業の業績も急上昇したのだ。日本産業は昭和8年1月に所有の15万株を応募価格70円以上・・・で公開し、同年6月に払込資本金が7500円となる。そして昭和9年には・・・10万株の公募増資などで公称資本金が1万6000円、払込資本金が9625円となった(p154)
満州撤退を決意
その後,満州で自動車産業や航空機生産を構想し,関東軍の要請に応える形で日本産業の本社を満州に移転し,満州重工業開発株式会社と改名しました。
しかし,アメリカやユダヤ資本を導入することに反対され,アメリカ式大規模農業の導入にも反対され,満州撤退を決意。満州重工業開発の日本企業の株式を満州投資証券に移し,満州と日本の資本を分離した後に,総裁を辞任。鮎川義介の先見の明が感じられます。
日米関係が改善しないなら・・・日産コンツェルンが逆に満業に乗っ取られる危険があった。そうならぬように満州国の産業開発機構から満業を切り離し、傘下企業の人事、資金調達、技術指導のみを担当する組織に改革する。日産系企業の株式と満洲企業の株式を分離し、日産系企業の経営権を保持する体制を整えたのである(p237)
戦争や好況で大儲け
何度も倒産の危機をグループ資金で乗り越え,その後の戦争や好況で大儲けする企業家としての粘り強さが印象的でした。
また,株高なら株式を通じて資金調達する。そうした資金で新規事業に投資する。グループ企業を天下り人事で統制するなど現在の日本の会社の仕組みを先取りしているように感じました。
倒産の危機をルノーに助けられ,ルノーに乗っ取られそうになったらゴーンを切った日産の経営を鮎川義介はどう見ているのでしょうか。堀さん、良い本をありがとうございました。
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この本で私が共感した名言
・鮎川の通った山口高等学校は、防長教育会の庇護を受けた明治27年から明治38年までの12年間に挟まる前述の「旧旧山高」である。驚くべきはこの12年間の累計卒業生832名のうち、818名が帝国大学の各分科に進学していたことだ。実に98%もの帝国大学進学率という数字で、鮎川もその一人であった(p32)
・世襲に対する疑問も口にしている「・・・世襲精度は人類向上には逆効果をもたらすものといえる」・・・長州閥と揶揄されながら、しかし確かに明治期には井上馨にしろ、伊藤博文にしろ、桂太郎にしろ、自らの息子に政治家を世襲させてはいない・・・徳川体制を倒した長州人の心に焼き付けられた倒幕精神の宿命であったのではないか(p49)
・最初の渡米時に早くもハリマンと南満洲鉄道の共同経営が決裂し、日米関係の悪化がはじまっていた。そして翌明治39年に日本が単独で南満洲鉄道の経営を始めると、1907(明治40)年1月にはロサンゼルス・タイムズが日本脅威論を唱えはじめた(p70)
・戦争が終われば反動的不況が来る・・・そう思った鮎川義介は資金回収に奔走し、130万円の現金を手に入れた・・・日本銀行の土方久徴を訪ね、「250万円の金を、そっくり預金するから、いざ必要という時は、3倍を融通してくれ」と頭を下げた。それから戸畑鋳物や親戚縁者の援助を受けて、資本金500万円で私的持株会社を立ち上げる。これが大正11年1月に東京市に創立された共立企業株式会社である(p119
・人がふえるとともに上がつかえるようになったのだ・・・そこで、これをさばくため、色々の業種の別会社を設立して、そこに上の人間を送り込むことを考えついたわけである・・・こうすれば個々のプライドを傷つけずにすむし、また適材適所主義が行われやすくなる(p121)
・面白いのはレコード会社を掌中に収めた理由が、レコードを作るためではなかったことである。鮎川はテレビジョンの技術が欲しかったのだ(p196)
・鮎川 僕のやり方は、外資を導入しアメリカの技術を入れてやる。それも借款でなくて株で受け入れて両方不可分のものにして、開発しようというのだった。金を借りたんではすぐに逃げられるから日米合体でやった方がいいと考えたわけだ。ところが反対論が起こってね・・・あいつ(右翼の連中)は、十万の精霊によって漸く成った満洲に外国のドルを入れるというのは怪しからん。鮎川は売国奴だということで(p186)
・鮎川ー高碕―村上路線でアメリカ式農業開発計画、すなわち高碕プランが動き出すが、関東軍が進める満蒙開拓移民を指導していた加藤寛治の農本主義思想と真正面から対峙した・・・関東軍が農耕兵士として満蒙開拓団を日本から送り込んだのも、ソ連からの攻撃の防波堤の意味があり、北海道と同じ屯田兵方式だった(p213)
【私の評価】★★★☆☆(71点)
目次
1 山口での薫陶
2 反骨とアメリカ
3 北九州での拠点づくり
4 日産コンツェルンの誕生
5 満洲に向かうユートピア
6 戦後に引き継がれたもの
補遺 夢の跡
著者経歴
堀雅昭(ほり まさあき)・・・1962年、山口県宇部市生まれ。山口大学理学部卒業。放送大学非常勤講師歴任。東京霞が関ビルの霞会館(旧華族会館)、東京倶楽部で講演するなど各地で精力的に活躍している
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