【書評】「明治の光 内村鑑三」新保 祐司
2019/05/02公開 更新

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【私の評価】★★★☆☆(71点)
要約と感想レビュー
教育勅語に最敬礼しない内村鑑三
内村鑑三とは、何者なのでしょうか。内村鑑三は1861年生まれ。東京外国語学校、札幌農学校、米国アマースト大学に学び、札幌農学校でキリスト教に改宗します。
米国留学時には、米国がキリスト教国でありながら人種差別、拝金主義である事実に幻滅したようです。
教員、ジャーナリスト時代には、教育勅語に最敬礼をしなかった「不敬事件」や足尾銅山鉱毒問題へ関わり、日露戦争に反対したことなどが有名です。
鑑三のキリスト教も、誤解を恐れずにいうならば、「独学」のキリスト教であった。鑑三のいわゆる「無教会主義」も、ここから自然に生まれて来たものに他ならない・・・湖南も、謙蔵も、そして鉄斎も鑑三も「独学」の人であった(p196)
無教会主義を提唱する内村鑑三
盲目的にキリスト教を信じるのではなく、自ら聖書を読み、分析し、考える人であったようです。
教会よりもキリストそのもの、聖書を重要視する「無教会主義」を提唱。教会の権威・権力に対して日本独自のキリスト教を伝道していました。
個人雑誌『聖書之研究』を発行し、社会、政治、宗教などへの評論を継続しています。
『聖書之研究』は、いうまでもなく鑑三が、明治33年、39歳から死ぬまで出し続けた個人雑誌である。通算357号・・月二回発刊され、直接購読が原則で、過半数が郵送された・・2918人の名があり、書店では大体1600部前後売れていたようだから、『聖書之研究』は、人口が現在の半分くらいの時代に、約4500部発行されていたことになる(p197)
対立を恐れない内村鑑三
内村鑑三は宣教師と対立したり、出版社で同僚と対立するなど衝突を恐れない人であったようです。
天皇の教育勅語への不敬事件を起こし、日露戦争に非戦論を唱へ、アメリカの排日法案を批判しました。教会制度にも反対しており、あらゆる権威を否定したのです。
周囲の人から見ると面倒くさい人ですが、金も名誉もいらない人だったのではないかと想像しました。
新保さん、良い本をありがとうございました。
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この本で私が共感した名言
・内村鑑三は「無教会主義者」ではない。内村の「無教会」は、教会を相手にしたものではない。コルプス・クリスチアヌム以前の、パウロのキリスト教に他ならない。パウロの書簡『ロマ書』を講じた『ロマ書の研究』が心血を注いだ代表作である所以である(p42)
・海老名弾正は、大正15年(1926)に内村と会ったとき(内村は65歳であった)、内村が「海老名君、君と俺が死んでしまったら武士的基督教は無くなるよ」と語ったことを伝えている(p100)
・鑑三は「タルソのパウロにキリストを接いだ者が使徒パウロである。放蕩児アウグスチンに神の子を接いだ者が聖アウグスチンである」といっているように、日本武士内村鑑三にキリストを接いだ者が、「基督者」内村鑑三なのである(p108)
・鑑三にとって、「大文学」とは、敢えてあげれば、ダンテの『神曲』だったのである(p227)
・「デンマルク国の話」でも、「愚かなる智者」と「智き愚人」という風に、賢愚の観念が、ひっくりかえされている。普通の「賢者」は、実は、「愚かなる」者であり、世間から「愚人」とされている者の中に、「智き」者がいることをいっている(p290)
・元来、西洋人が日本へ耶蘇教を持ち込んだのは日本人を去勢する目的じゃった。それじゃけに本家本元の耶蘇からして去勢して来たものじゃ。徳川初期の耶蘇教禁止令は、日本人の睾丸、保存令じゃという事を忘れちゃイカン(奈良原観)(p61)
▼引用は下記の書籍からです。
【私の評価】★★★☆☆(71点)
目次
1 明治百五十年の日本と内村鑑三
2 近代日本思想史における内村鑑三
3 富岡鉄斎と内村鑑三
4 内村鑑三の磁場
著者経歴
新保祐司(しんぽ ゆうじ)・・・1953年生。東京大学文学部仏文科卒業。文芸批評家。現在、都留文科大学教授。
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