「斗南藩―「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起」星 亮一

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斗南藩―「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起 (中公新書)

【私の評価】★★★☆☆(72点)


■幕末、京都守護していた会津藩は、
 戊辰戦争で幕府軍として戦いました。


 当初は長州藩が朝敵でしたが、
 孝明天皇が崩御し、
 親幕府派の公家が排除されたことによって、
 会津藩が朝敵となってしまったのです。


 京都での鳥羽伏見の敗戦から
 江戸の無血開城。
 そして、新政府軍が東北地方に
 進軍してきます。


 会津藩は恭順の意を示したにもかかわらず、
 新政府軍の攻撃を受け、敗戦。


・会津人は藩主松平容保が京都守護職時代、
 テロ行動を繰り返し、京都を騒乱に陥れた
 長州藩に対し、強い敵意を抱いており、
 加えて鳥羽伏見戦争後、恭順の意を表した
 にもかかわらず、松平容保の斬首を要求して、
 会津に攻め込んだ長州の木戸孝允、
 薩摩の西郷隆盛らは断じて許し難いと
 強く叫んできた(p225)


■そして新政府軍の捕虜となった
 会津藩士は家族ともども
 青森県の荒野に強制移住させられます。


 その一万七千人。


 農業をしたことのない藩士や
 その家族が着の身着のまま、
 極寒の地に強制移住させられたのです。


 慣れない畑仕事で貧困と食糧不足で
 多くの人が病気や栄養不足で
 亡くなっていきました。


・当初、斗南に移住した会津人は一万数千人である。
 二年の間に一万三千人に減り、そのなかから
 さらに三千人が出稼ぎで姿を消したことになる。
 その結果、全体で一万人に減り、しかも六千人が
 病人または老人という驚くべき数字であった(p104)


■青森県の自然を知っているがゆえに
 ロシアのシベリア送りに相当する
 蛮行だと思いました。


 いまだに会津の人たちには
 薩長に対しわだかまりがあるという。


 次に官僚制度に対し
 革命が起きるとすれば
 会津からなのでしょうか。


 星さん
 良い本をありがとうございました。


───────────────


■この本で私が共感したところは次のとおりです。


・攻め込んだ明治新政府軍はいたるところで
 略奪暴行を繰り広げ、「敵は官軍にあらず、
 姦賊である」と会津の猛将佐川官兵衛は
 恭順を拒んだ。そのしこりは今日もなお
 強く残っており、薩長土肥と同じテーブルで、
 論じ合うことを拒む気風も存在する(p224)


・新政府は、一向に移住費の額を示さない、
 そこで(明治2年)7月にふたたび請願したところ、
 9月に入って政府から不裁可の旨が発せられ、
 特別の詮議で、金17万両(約107億円)、
 1200石を下賜するので、速やかに移住せよと
 命令があった。必要経費の三分の一である。
 にもかかわらず、もし移住しなければ
 厳重に処分するともあった(p28)


・割り当てられた斗南藩領は北郡
 (上北郡全域とむつ市、下北郡全域をさす)、
 二戸郡(現在の岩手県金田一以北)、
 三戸郡にまたがる広大な面積を有していた・・
 150年前は、不毛の地であった(p17)


・津軽や南部の歴史は、凶作との闘いといってもよかった・・・
 いつも飢餓状態の陸奥の地に4、5千人に及ぶ
 会津人が着の身着のままでやってきたのだから、
 地域の人々の本音は、迷惑な話だった(p25)

 
・三戸では産馬組合付近の熊野林に会津人居留地
 をつくった。四棟三十戸ほどの長屋である。
 建築費四百両は三戸の人々が負担した。
 南部藩も薩長に刃向かったとして減封されたが、
 同じ運命をたどった斗南の移住者に対し、
 地域の人々は深く同情し、
 寄附金を寄せたのだった(p76)


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■目次

第1章 会津藩の戦後処理
第2章 なぜ南部の地に
第3章 移住者の群れ
第4章 斗南の政治と行政
第5章 会津のゲダカ
第6章 廃藩置県
第7章 揺れ動く心
第8章 斗南に残った人々
第9章 北の海を渡った人々
第10章 流れる五戸川



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