「日本経済の心臓 証券市場誕生!」日本取引所グループ

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日本経済の心臓 証券市場誕生!

【私の評価】★★★☆☆(73点)


■享保15(1730)年、大阪の堂島に
 世界で最初の先物取引所である
 「堂島米会所」が設置されました。


 当時は米が重要作物であり、
 米価を需要と供給から決定するために
 市場が必要だったのです。


■さらに、米価が上下することから
 小さい金額で先物を売る権利を
 予約するニーズもあったわけです。


 日本人の先見性に
 びっくりしました。


 良い本をありがとうございました。


───────────────


■この本で私が共感したところは次のとおりです。


・先の組屋の事例では、米の売却代金・金21枚3両のうち、
 手数料と運賃で金13枚3両が組屋に入っていると示し、
 その手数料割合は6割に達すると分析しています(p11)


・蔵屋敷で国元から送られてきた物産を
 大阪の商人に売り捌くのですが、
 米については売買で移動させるには
 重くてかさばることから米切手と呼ばれる
 証書の形で販売しました(p17)


・「延売買」は、米切手の買付代金を全額払わず
 残額を一定期間後に支払うという契約をする取引で、
 指定された交換期日が来るまでの一定期間中は、
 その米切手を転売することができました・・
 先渡し契約に相当すると考えられます(p22)


・各藩は、領主米の販売による収入を引き当てに、
 掛屋から借金をしていたため、借金がある限り、
 大阪での領主米販売はやめられませんでした(p27)


・吉宗は享保15(1730)年、幕府公認の米切手転売市場である
 「堂島米会所」を設立します。1531年にアントワープに、
 1568年にロンドンに、公設の商品取引所が設立されていますが、
 この堂島米会所は日本で最初の公設の取引所であるばかりでなく、
 世界で最初の公設の先物取引所ということになります(p31)


・(本間)宗久は酒田の相場でいったいなぜ、
 連戦連勝を続けることができたのでしょうか。
 それは何といっても宗久が酒田の米相場の価格が、
 大阪の米相場に連動することを知っていたことが
 大きいでしょう。・・当時、大阪の米相場の情報が
 酒田に伝わるのには、2、3週間を要したとされています。
 これは通常西回廻り航路でもたらされるもので、
 しかし酒田の米座仲間では、健脚の飛脚を雇い入れて
 大阪の堂島と酒田の間を7日で駆けさせたそうです(p59)


・糸平は横浜金穀取引所での地位を利用し、
 見せ金を追証として入れたことにし、
 一方でドル(洋銀)は小切手でなく
 現物を積むようにルールを改正してしまったので、
 フイドン側は敗北したと言われています。
 居留地のイギリス軍が金穀取引所を
 包囲するような大騒ぎになり、
 神奈川県令が仲裁に入ってようやく
 騒動は収束しました(p105)


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【私の評価】★★★☆☆(73点)



■目次

1 江戸期―証券取引の夜明け
2 明治・大正期―兜町と北浜
3 昭和期戦後の証券市場復興と隆盛



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