「プリンシプルのない日本」白洲 次郎
2007/10/16公開 更新本のソムリエ [PR]
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【私の評価】★★★☆☆(79点)
要約と感想レビュー
白洲次郎といえば、戦後処理において吉田茂の片腕として、日本国憲法成立などに関係し、さらには通商産業省を誕生させ、東北電力会長を務めた大物です。
その生い立ちは変わっていて、大金持ちの子息であり、イギリスのケンブリッジ大学へ留学。実家の白洲商店が倒産したため帰国し、英字新聞の記者となっています。結婚後、ケンブリッジ留学時代の友人のつてでセール・フレイザー商会取締役となり、1937年(昭和12年)日本食糧工業(後の日本水産)取締役となっています。
この本は白洲次郎が雑誌などに発表した文書をまとめたものですが、その内容は「日本人への警告」となっています。まず、白洲本人は率直に口に出す人だったようですが、イエスマンがとにかく嫌いだったようです。イエスマンは事実を話さずに、相手に都合の良い話ばかりするために、現実を歪めてしまうという怖さがあります。終戦後の官僚に、イエスマンの腐った部分を白洲は見たのです。
・終戦直後、私が終戦連絡[中央]事務所に居た時分の印象の一つで、いまも頭に残っていることがある。それは一番平気で米軍側に立ち向かったのは、昔の内務省出身の役人が多かったこと。(p65)
また、良いことであれば外国に学ぶ、問題があれば議論するといった、論理的で素直な考え方を推奨しています。ケンブリッジに欧米風の考え方に接し、その合理的な考え方が肌に合ったのでしょう。当時、国際感覚を学ぶ教育の必要性も強調しており、北欧の国際感覚を激賞しているところは、これこそ白洲次郎の国際感覚の良いことを証明していると思いました。
・将来の日本が生きて行くに大切なことは、・・・日本の国の行き方ということを、国際的に非常に鋭敏になって考えて行くことだ・・・この国際感覚という問題だが、日本は北欧の人みたいに、地理的の条件に恵まれてないから、これを養成するにはやはり勉強するよりほかにしょうがない。(p30)
白洲次郎の言葉は、戦前・戦後を反省する形となっていますが、現在の日本でもそのまま当てはまる警告が含まれているように感じました。率直に話したほうが、関係は長続きするという警句は身にしみました。★4に限りなく近い★3つとします。
この本で私が共感した名言
・当時日本で外国のことを誉めると評判が悪かったのでみんな異口同音に、日本が一番、外国に学ぶ処は皆無と言ったではないか。こういう種類の狭い国粋論と一人よがりの馬鹿さ加減が戦争開始に貢献(?)したことは多大であったとも言える。(p98)
・当時満州にいた日本の高官連は、日本語を上手に話し日本人に接近することに努力していた満州人連に話を聞いて、その連中の言うことを以って満州大衆の意見とした。結果は全然違っていた。・・・個人関係に於いても、国際関係に於いても永続きする友情は双方が腹を打ち開けて話すことである。(p56)
・政府が悪い、与党がなってない、反対党が無茶だと批判しはじめればきりがないが、私はまずマスコミの反省を望みたい新聞などの一番大切な使命は真相の報道である。・・・たとえば政府与党が過半数を制している議会においては、政府与党の提出する法案が成立することは当たり前であるということを認めないのか。(p245)
・日本人は盛んに、現実を凝視せよ、なんて言うけどね、事実を事実と認めて黙って見ているんじゃいけないんだ。議論したければ議論すればいいんだ。ところが、痛烈なことを言うと恨むんだね。人の前で恥をかかしたって、面子々々・・・(p274)
▼引用は、この本からです。
【私の評価】★★★☆☆(79点)
目次
野人・白洲次郎(今 日出海)
カントリー・ジェントルマンの戦後史―白洲次郎直言集
日本人という存在―座談会(白洲次郎・河上徹太郎・今 日出海)
プリンシプルのあった人―辻井喬
著者経歴
白洲 次郎(しらす じろう)・・・1902年生まれ。兵庫県芦屋の実業家の次男として生まれる。イギリス・ケンブリッジ大学に留学。帰国後は、英字新聞記者、商社などに勤務するが、敗戦を見越して町田市で百姓となる。吉田茂に請われて終戦連絡中央事務局参与となり、日本国憲法成立に関与。通商産業省を誕生させる。東北電力会長などを勤め、1985年逝去。
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