「OUT OF AFRICA アフリカの奇跡 世界に誇れる日本人ビジネスマンの物語」佐藤芳之
2018/05/11公開 更新本のソムリエ [PR]
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【私の評価】★★★★☆(83点)
要約と感想レビュー
アフリカで起業
アフリカでマカダミアナッツの世界5本の指に入る会社を作った佐藤さんの一冊です。学生時代からアフリカに興味を持ち、留学し、現地の日本企業で働き、仕事の基礎を学びました。32歳で独立(プータロー)し、アフリカで起業することにしたのです。
鉛筆の製造のビジネスをしながら、著者はマカダミアナッツと出会います。これはビジネスになるんじゃないかと閃き、動きだします。最終的には明治製菓から資金援助を受け、マカダミアナッツの製造がはじまったのです。
ニーズがあるとわかったら、これはいけるかもしれないとやってみて、やってみたらうまくいったという。まずは行動を起こすことが著者の特性なのです。
どうせ始めるなら、ひとつだけじゃなく、いくつかをいっぺんに始めて、どれが生き残るか見てみようと思いました(p92)
約束は守られない
アフリカでは誰か人が会いに来るとき、よく待たせたり、すっぽかしたりするという。30分待たせてみて、まだ待っているなら、どうやら、自分がかなり優位に立っていると確認するのです。また、アフリカで人を雇うと、嘘をつかないとか、約束を守るとか基本的なことをほとんど守れないのだという。
このようにアフリカですから、約束が守られないこともあります。時間を守らないこともあります。ビジネスでは騙されることもある。殺されそうになったこともあるのです。例えば、現地のビジネスを任せたドイツ人の男性は、別会社をつくって同じビジネスをやっていたという。
だから、著者はケニアの会社で力を付けた人は、独立してもらったという。現在、ケニア人でナッツのビジネスをやっているのは、全員著者の興した会社から出ていった人間だというのです。騙されるくらいなら、出ていって仲間にするということでしょうか。
ブラジルでひどい目に遭う・・信頼して現地の一切を任せた日系人が機械や部品を調達する際に、代金を水増しして懐に入れる(p136)
アフリカへの愛
アフリカの支配層は、自分の欲望を満たすことだけ考えているという。こういう欲望を抑えることができない人間が力を持っているのが現実なのです。
それでもアフリカの貧困層の人や、貧しい子どもたちは、案外明るく生きているという。とにかく食べていくこと、親を養うために働いているのです。日本の「この仕事は俺には向いていない」などという若者とは違う世界なのです。
著者のアフリカへの愛が感じられました。佐藤さん、良い本をありがとうございました。
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この本で私が共感した名言
・絵を描くにしても、スポーツをやるにしても、最初からそれ一筋というのではなく、あちこちに寄り道して、いろんなことを経験していると、あるときパッとすべてが一緒になって、道筋が見える。そういうものだと思います(p43)
・私は、今でも毎日一生懸命、本を読んでいます。先日もアメリカから本をどっさり買ってきました。次々と読んで、気になったことを書き留めていきます(p215)
・人としての最低限のノーブルさを保ち、知的に生活すること。大きな仕事を成し遂げようと望むときには、私的な部分がだらしなくなっているとダメです。経済的にも、特に大金持ちでなくてもいいけれど、ちゃんと食べられる程度の収入があって、家もそれなりに堂々としたろころに住む(p66)
・一夫多妻制が定着したのにはそれなりの理由があります。男たちは女性を労働力とみなしていたのです・・女性の側は自分を養ってくれる男性が必要でした(p121)
・盗んだ者は死んで当然・・警察官は、泥棒を捕まえにいくのではなく、泥棒がリンチで殺されるのを止めに行くのです(p125)
▼引用は下記の書籍からです。
朝日新聞出版
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【私の評価】★★★★☆(83点)
目次
はじめに 桁外れにスケールの大きな日本人
序章 風の吹き始める場所
第1章 アフリカへ
第2章 ケニア・ナッツ・カンパニー
第3章 アフリカってところは!
第4章 失敗から学ぶ
第5章 アフリカが教えてくれたこと
第6章 さらに先へ
第7章 新たなるチャレンジ
終章 アフリカから日本を想う、日本を憂う
著者経歴
佐藤芳之(さとう よしゆき)・・・ケニア・ナッツ・カンパニー創業者、オーガニック・ソリューションズ代表取締役社長。株式会社ニダフジャパン代表取締役会長。1939年生まれ。宮城県志津川町(現・南三陸町)で幼少期をすごす。1963年、東京外国語大学インド・パキスタン語学科を卒業後、日本人初の留学生としてガーナ大学で学び、修了後はケニア・東レ・ミルズに現地職員として入社。31歳で退職し妻子を連れて日本に一時帰国。32歳で単身ケニアに戻り、鉛筆工場、製材工場、ビニールシート工場など、小規模なビジネスを次々と立ち上げ、うち一つを最終的にケニア・ナッツ・カンパニーとして世界5大マカダミアナッツ・カンパニーに成長させる
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