「本能寺の変 431年目の真実」明智 憲三郎
2015/06/09公開 更新本のソムリエ [PR]
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【私の評価】★★★★★(93点)
■織田信長にいじめられていた明智光秀が、
本能寺で信長を討った・・・
というのが、普通の人の認識でしょう。
この定説に真っ向から反論するのが、
この本の著者であり、
明智光秀の子孫である明智さんです。
著者の説は、信長は、
光秀を使って本能寺で家康を暗殺しようとし、
逆に、家康に寝返った光秀に
信長が殺されたといういもの。
・信長と光秀との間で本能寺での家康討ちの段取りが
決められていた。光秀と家康は、それを逆手に取って
どのように信長討ちを実行するか、
家康は本能寺の変の勃発をどうやって早く知って
堺から脱出するか、など
具体的な段取りが相談されたはずだ(p203)
■光秀が家康に寝返った理由は、
信長の四国の長宗我部征伐です。
四国の長宗我部氏は土岐氏。
光秀も土岐氏だった。
土岐氏とは、桔梗を家紋とする
足利幕府で一大勢力となった名門。
一時は、信長と長宗我部氏は光秀を介して
同盟関係にあったのですが、
信長は長宗我部氏討伐に
方針を転換したのです。
・光秀が土岐一族であったことは、
光秀と交流のあった公家の立入宗継が
『立入左京亮入道隆佐記』で光秀のことを
「美濃国十人時の随分衆なり」、
つまり土岐氏の位の高い人と書いていることでも
裏付けられる(p97)
■歴史の面白さはここにある!
と思いました。
限られた資料の中から、
当時の人の心の動き、情勢を
推察すること。
これこそが歴史の面白さなのでしょう。
明智さん、
良い本をありがとうございました。
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■この本で私が共感したところは次のとおりです。
・光秀にとって長宗我部氏は単なる同盟者ではなく、
土岐石谷氏という縁戚を通じて「長宗我部氏も土岐一族」
という一族意識のもとに同盟を形成していたのでは
なかろうか・・長宗我部氏が織田軍により滅亡の危機に
直面したのだ(p124)
・信長が義明を担いで上洛し、樹立した政権は、
義明・信長の二重政権で、何事も幕府と信長が
共同統治する形をとっていた。この二重政権において
光秀は幕府方の行政官として信長方と共同して
執務を行っていたのだ。・・(p68)
・松井康之をはじめとする細川家中の者は、
かねてから光秀の出世を複雑な思いで
見ていたことであろう。昔は藤孝に仕えていて、
しかも自分たちより身分の低かった光秀が
天下を取ってその風下に立つことを
快く思わなかったはずだ(p280)
・秀吉の頭には信長の唐入りが
光秀の謀反を招いたことがこびりついており、
自分の唐入りの際には謀反が起きることを
極度に警戒し、着々と手を打ったのだ(p309)
・明治政府は家康によって破却された豊国神社を
再興して秀吉を神として祀り、逆に徳川幕府の
平和国家・善隣外交の理念と仕組みを破却した。
その結果、昭和の時代に至って再び唐入り
(中国大陸侵攻)へと進んでしまった・・(p324)
文芸社
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■目次
◆第一部 作り上げられた定説
◆第二部 謀反を決意した真の動機
◆第三部 解明された謀反の全貌
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